先週末、ブライアン・マグワイアというアイルランド人画家の個展を見た。翌日はキリアン・マーフィー主演の映画『Small Things Like These』に足を運んだ。
どちらも重く苦しいテーマを描いているから、誰かといっしょに行ったらそのあとの会話に困ったかもしれない。数日を経て、2つの異なったメディアの印象が頭の中でようやく消化されてきて、また見に行きたいという気持ちになっている。
ブライアン・マグワイア Brian Maguire の個展には、もともと行くつもりだったわけではない。ヒュー・レイン・ダブリン市立美術館 Hugh Lane Gallery に音楽を聴きに行ったら、コンサート会場として使われているホールが個展の入口で、それならばと、コンサートのあとに残って絵を鑑賞することにしたのだ。

『La Grande Illusion』展は 2025年3月まで開催。南米の密林を描いた絵の横に、英金融機関 HSBC のパッケージに入った札束の絵が並べられているのは、HSBC がメキシコの麻薬カルテルの大額の資金洗浄に関わったという事実を喚起させるため。

コンサートの時間にはグランドピアノや椅子が並べられていたホール。

1951年生まれ、現在70代のマグワイアは、ダブリンとパリを拠点に活動する画家であり、人権擁護活動家だ。この展覧会は、彼が2007年から現在までに実際に訪れたメキシコ、地中海、アレッポ、南スーダンなどの惨状を描いた絵画を通して、暴力、不正義、戦争、人権、環境破壊といったテーマを見るものにつきつけている。

右の絵には、大きなキャンバスいっぱいに広がる深い青い海にたゆたう人間の姿がある。一見するとわからないが、実はイタリアの海岸に流れ着いた難民の死体だ。

アリゾナの砂漠を描いた連作(2020年)のひとつ。南米から米国に渡ろうとして死んだ人々の朽ちてゆく姿が明るい色彩の中に浮かぶ。

2015年の作品『The Known Dead』に横たわるのは、やはり南米から北米に逃れようとして殺された人々。身元が確認できた死体だそうだ。

マグワイヤは、自分の絵が誰か個人に所有されるよりも、公共の場所に展示されることで多くの人々の目に触れることを望んでいるという。目を背けたくなるようなタッチではなく、赤や青の鮮やかな色彩が中心にあるため、彼が焦点を当てる世界中で起こっている問題は、その絵の美しさとともに見た人の心の中にいつまでも残っていくと感じた。
さて、キリアン・マーフィー。『オッペンハイマー』で主役を演じ、今年初めのアカデミー賞で主演男優賞を受賞してその存在感を見せつけたが、インタビューなどを見ると「となりのお兄ちゃん」的な普通らしさがある人だ。

キリアンがコロナ中に読んだというクレア・キーガン Claire Keegan という作家の小説を映画化した『Small Things Like These』。

この映画の舞台は、私が9月に訪れたニューロス New Ross。この地には、マグダレン修道院 The Magdalene Sisters という施設があり、そこではカトリックの戒律にのっとった道徳観のもと、婚外交渉をして身ごもった女性を収容し、洗濯などの強制労働をさせていた。
キリアン・マーフィー演じる主人公ビルは、5人の娘と堅実な妻とともにつつましい生活を送る石炭商。たまたま若い女性が自らの意に反してこの修道院に入れられるのを目撃する。修道院への配達を続けながら、中で女性たちに行われている残酷な仕打ちを目の当たりにし、自らがどういう行動を取ればよいのか葛藤する、といった物語だ。
映画を観ながら、これはいったいいつの時代の話だろう、と考えあぐねた。まるで前時代的な価値観が支配し、困窮との隣り合わせにある田舎のアイルランドの暮らし。でも家にはカラーテレビがあるし、パブでかかる音楽はポップミュージック。じつは1985年が舞台の作品と知ってがく然とした。考えてみれば、最後のマグダレン修道院(洗濯所)が閉じたのは1990年代なのだ。
この修道院について詳しくは、『マグダレンの祈り』(The Magdalene Sisters: 2002)という映画で知ることができる。この映画では収容された女の子のひとりを演じるアイリーン・ウォルシュ Eileen Walsh が、今作ではキリアン・マーフィーの妻役であるというのも感慨深い。いい役者さんです。
この映画の救いは、キリアンの美しさ。彼の青い目が言葉にできない思いを語っている。最後のシーンで見せる彼の表情は忘れられない。
原作を読んで映画化を楽しみにしていたという友人は、「マグダレンのようなひどいことは、日本では起きなかったでしょう」とため息をついて言った。そうだといいのだけれど。でも日本でも、ハンセン氏病の患者が家族から引き離されて隔離されたり、旧優性保護法のもとで何十年にも渡って不妊手術が強いられたりと、組織的に人権が侵害されてきたことがそう遠くはない過去にある。どの国もそうした過去を忘れないようにしなければいけない。