毎年9月最後の週末の数日間、ニューロス New Ross というアイルランド南西部の町でピアノフェスティバルが開かれる。

私が訪れるのは今年が初めてだが、もう18回目、つまり18年目のフェスティバルだというから驚く。2年前にピアノ好きの仲間たちが教えてくれるまで知らなかったのだが、特にクラシック音楽好きでもない同僚や友人たちはやはり誰も聞いたこともなかった。

ニューロスの町の中心、メイン通りにかけられたピアノ・フェスティバルの垂れ幕。

コンサート会場はプロテスタントの聖メアリー教会 St. Mary’s Church。

教会は町の高台にあり、斜面を見下ろす町の西側に流れるバロー川 River Barrow と東側の坂の斜面に建てられた家々とが町並みを面白くさせている。

ニューロスはウェックスフォード県 County Wesford にある。中心地のウェックスフォード・タウンには国立オペラハウスがあり、オペラフェスティバルが毎年10月に開催されることで有名だ。そこではなく人口9千人弱の町ニューロスでピアノフェスティバルが行われるのは、ある人物とこの地が深くかかわりがあるかららしい。

フェスティバル創立者の一人でもあり芸術監督を務めるピアニスト、フィンニン・コリンズ Finghin Collins は、18年前にたまたまこの近辺に家を買った。ニューロスのクラシック音楽愛好家と交流が始まったのは自然の成り行きだったに違いない。あるとき、コンサートで使用するグランドピアノのレンタル代について地元の有志と話し合い、一回きりではなく複数のコンサートを行って一台のピアノを有効に活用しようと生まれた案が、数日間フェスティバルを行うということだった。それが18年続いているのだから大したものだと思う。

今年は9月26日の木曜から29日の日曜にかけて、コリンズ氏自身をはじめ、国内外から集まったピアニストによるコンサートやマスタークラスが10ほど行われた。司会も務めるコリンズ氏は、来年2025年に開かれるダブリン国際ピアノコンクールの芸術監督そして審査員長でもあるため、「I am wearing two hats. 一人二役をしています」と言いながらその宣伝にも忙しい。

フェスティバル期間中、ニューロスの町中のカフェ Dunbrody Café と図書館で10代のアマチュアのピアニストたちによる演奏も行われた。カフェでは私がこの夏練習をしていたシベリウスの『もみの木』も聴けて幸せ。

こちらはニューロス図書館。

図書館に設置されたピアノ。2階にある図書館は窓が大きく開放的で落ち着ける空間だ。

図書館にはアメリカのケネディ元大統領関連の書籍がたくさんあった。大統領の曾祖父はニューロス出身の農民で、19世紀半ばのじゃがいも飢饉のときにアメリカに移住。それから一世紀余りを経た 1963年に子孫のケネディ大統領がアイルランドを訪れた。

図書館の漫画コーナーには、ヤマザキコレさんの『The Ancient Magus' Bride(魔法使いの嫁)』も。ヤマザキさんの最新作は、何とアイルランドを舞台にした『ゴーストアンドウィッチ』です。

イギリス人ピアニスト、ポール・ルイス Paul Lewis のコンサートは金曜の夜7時から。演奏前に、となりに座った紳士と軽く話をした。車で30分くらいの隣県から毎年このフェスティバルに来るという彼は、会場を見渡して、「It should be packed. 満員でしかるべきなのに」と残念がった。

教会の長椅子の座席は中央部はほぼ埋まっているように見えたが、バルコニー席も入れると300人は入る会場の半数ほどしか聴衆は入っていなかったかもしれない。

演奏曲目はシューベルトのピアノソナタ第20番と21番。どちらも40分ほどの作品で、休憩なしの渾身の演奏に私も夫も前のめりになって聴き入った。演奏後、余韻を引きずりながら会場の外に出ると、「ワオ!Wow!」と感想(?)をもらす人たちに「Wow, indeed. 本当に『ワオ』よね」と応える関係者たちとのやりとりが聞こえた。これだけのレベルの高い演奏は、確かにもっと多くの人に聴いてもらいたかった。

翌日は正午12時から日本人ピアニスト、黒木雪音さんの登場。2022年のダブリン国際ピアノコンクール優勝者の黒木さんは、この4月にもダブリンでコンサートを行った。今回の彼女の演奏プログラムは、ベートーヴェンのピアノソナタ6番、リスト2曲、徳山美奈子のムジカ・ナラ、カプースチンの変奏曲などの興味深い組み合わせで、特にリストの『ダンテを読んで Après une Lecture de Dante』の激しいパッセージのときには呼吸も忘れてしまうくらい緊張感が高まり、高齢者の多い聴衆の誰かが心臓発作でも起こさないかと心配になった。

黒木さんのコンサートは約1時間で、コンサート後に会場の外でコーヒーと紅茶がふるまわれた。たくさんの人が彼女と一言言葉を交わすために並び、私も少し話すことができた。演奏中もいろいろな表情を見せる黒木さんは、終始ニコニコと笑顔を振りまいていて素敵だった。

まるでユーチューバーのように元気で曲の合間のトークも面白いオーエン・フレミング Eoin Fleming はダブリン出身のピアニスト。「アンコールで弾くような曲」をプログラムに組み、最後の曲をもう一度アンコールで披露した。

私と夫が 2泊した Brandon House Hotel は会場から徒歩 20分。ホテル内にプールやジム、くつろげるバーやレストランもあって日常から解放された快適なひと時が過ごせた。

朝ごはんはアイリッシュ・ブレックファストやシリアル、各種パンも食べられるビュッフェ形式。ホテル自家製のハムがおいしかった。

丸2日小さい町を歩き回っていると、いつも同じ道で立ち話をしているおじさんを見分けられるようになり、スーパーやカフェや図書館で同じ女性と遭遇したりした。教会の関係者が中心で手伝っているであろうコンサートの受付では「Hello again」と声をかけられた。何とも居心地のよい町だ。

ダブリンから公共交通機関では行きづらいが、車では2時間しかかからない。地元の人だけでなく、全国からもっと多くの人が訪れて盛り上がってほしい。中規模の会場で何人ものプロの演奏を短時間で味わえる機会は珍しいのだから。