母と妹がアイルランドから去ってから一週間後、私は夫とブリュッセルに飛んだ。エアリンガスのパイロットのストライキの影響も受けることなく無事にベルギーの首都に到着。過ごしやすい天気の中、のんびりと数日観光をした。

AirB&B(民泊)で借りたアパートはブリュッセルの市街までバスですぐ、歩いても30分ほどで、観光の拠点にぴったり。Netflix もあったので、『エミリー、パリへ行く Emily in Paris』や『ルパン/Lepin』といったフランス語のドラマを朝晩観た。ブリュッセルは主にフランス語圏なのでフランス語のドラマ、というわけだが両方ともパリが舞台。怪盗ルパン役のオマール・シーの演技にしびれました。

アパートは 5泊で474ユーロ(約8万2千円)。足も伸ばせるソファがいいよね。

ブリュッセルと言ったら小便小僧。55.5センチしかないその小ささからか、シンガポールのマーライオン像、デンマークの人魚姫の像と並んで「世界3大がっかりスポット」と言われているようだが、どうしてどうして、あまりにもかわいらしくてその姿をまた拝みたくなり、街中に出るたびに「あの子を見に行こう!」と通ってしまった。

どうして放尿している男の子の像なのか。その由来の説で有力なのは、ブリュッセルを包囲した敵軍が城壁を爆破しようとした際、ある少年が導火線に放尿して火を消し、町を救ったという伝説だ。像は何度か盗難の憂き目にあい、1965年に盗まれて以来、本物はグラン・プラスの市立博物館に保管されている。だから我々は実はレプリカを見ているのだ。

ブリュッセルの中心部にある石畳の有名な広場 Grand Place グラン・プラス。市庁舎や王の家(市立博物館)など美しい歴史的建造物が立ち並ぶ。小便小僧の像はここから歩いてすぐ。

ブリュッセルのマスコット Manneken-Pis マヌカンピス(小便小僧)の像。周囲には土産物屋とチョコレート店が多い。

1415年にはここに噴水があったという記載があるようだが、今もある像は 1619年に彫刻家ジェローム=デュケノワが市の依頼を受けて製作した。

小便小僧にはベルギー内外から衣装が送られ、2日に一度は着せ替えられている。私たちが見たのは 2着。写真左はカナダのケベック州の「ケベックの日/聖ヨハネの日」を記念した衣装で、小僧はケベック州の旗をもっている。カラフルなマフラーをした右の衣装は、ブリュッセルの自治体のひとつ Woluwe-Saint-Pierre から送られた新しい衣装で、何と 1150着目。衣装の月刊スケジュールが衣装博物館の公式ウェブサイトで確認できる。

ブリュッセルで小便小僧以上にインパクトが強かったのは、あるサンドイッチ店だ。この店のことはいったい何と形容していいのか、悩むところなのだが、ただサンドイッチを買って食べるだけでは断じてない。店の外でまず並んで待ち、癖の強いオーナーに圧倒されながら注文をし、サンドイッチが作られるのを見て、そして食べる、という一連の流れすべてがもう特別な体験なのである。

ブリュッセル中央駅や芸術の丘 Mont des arts、グラン・プラスからも徒歩 3分ほど、噂のサンドイッチ屋 Tonton Garby トントン・ガービーの前。看板の Brood & Kaas はオランダ語でパンとチーズのこと。看板の反対側はフランス語になっている。

この日(朝11時半ごろ)は店の外に10人ほどが列をなしていた。並んで10分ほどで我々の前のアメリカ人のグループから4人が脱落。「しめしめ」と思ったが、店の中に入れたのはそれから1時間ほど経ってからだ。斜め向かいにあるホテルの地階でトイレが使えたのはよかった。

親の代にモロッコからベルギーに来たというモハメッドさんとフセインさんがオーナーで、市内に 2店舗サンドイッチ店を展開している。この方はフセインさん。新鮮さを保つためにケースの中のチーズを使う度にラップをかけたり、トマトやチーズを切るナイフをいちいちふいたりする仕草がとてもていねいで、この人が作るサンドイッチはおいしいだろうなと感じさせる仕事ぶりだ。

店内には 3つほど小さなテーブル席がある。店内に並べるのは 5、6人だ。

目の前で注文を受けてから作るとしても、サンドイッチひとつにどうしてこんなに時間がかかるのか。店内で様子を見ていると、フセインさんは一人ひとりに「どこから来たの」と声をかけてまずウォームアップ。どんな国や地域の名前が出ても「先週そこから来た人がいたよ」などと話を盛り上げる。中には常連もいて、「ごめんね今日はちょっと待ちが長かったよね」とあいさつし、「今日も出張?」と話が始まる。

こうしてサンドイッチを作り始めるまでが長いのだが、そのあいだに彼は片づけをしたり新しいパンや材料を出したりと、けっこう忙しいのである。

新しい客には、おしゃべりがひとしきり終わると、「アレルギーはある?」「フルーツと野菜(トマトのこと)のどちらを入れる?」「山羊のチーズは大丈夫? ブルーチーズは?」等、好みや苦手なものを尋ねる。そしてようやくサンドイッチを作り出すのだが、さらに「くるみは入れる?」「洋梨は?」とどんどん具材が足されてくる。彼はフランス語、オランダ語、アラビア語、英語に堪能、ほかのいくつかの言語も知っているようだ。

店内には何種類かのサンドイッチのメニューが貼られていた。私たちの前の客のひとりがその中から注文しようとすると、フセインさんは「あんなのよりも君の好きなものを作ってあげるよ」と一笑。私もそうやって注文時間を短縮するつもりだったのだが、そうはいかないということだ。

店の中でさらに30分以上待ち、ようやく我々の番が来た。もう午後1時を回り、かなりおなかがすいている。1時半にグラン・プラス広場が集合場所のウォーキングツアーの予約をしていたので、あまり時間はないと焦ってきた。

フセインさんはそんな私たちにもリラックスムードで「アイルランドから来たの!アイルランド人はパレスティナを応援してくれるいい人たちだ」と始め、「日本から!『ありがとう』」と日本語まで披露してくれた。そしておよそ10分かけて私たちに2つのサンドイッチを作ってくれた。

見てください、このカラフルで美しいサンドイッチ。こちらはいちじくやブドウの載った甘い風味のもの。もう一つのサンドイッチはトマトとオリーブペーストなどが入った少し酸味のある味で、どちらもチーズがたっぷりで、目を回すほどおいしかった。

フセインさんは「You smile, no stress」と誰にでもくり返す。それが夫婦円満の秘訣だとばかりに、20年以上連れ添っている奥さんの写真まで私たちに見せてくれた。

店の中でひと口食べて、残りはテイクアウトにし、店を出たのは並び始めてから2時間後だった。グラン・プラスのウォーキングツアーには何とか間に合った。サンドイッチはひとつ 9ユーロ(約1500円。もっとシンプルな具なら 8ユーロかそれ以下)で決して安くはないが、一度には食べきれない大きさで、我々の昼食と夜食になった。

数日後にお店の前を通りかかると、やはり10人くらいが並んでいた。フセインさんの「No hurry. 急ぐことはない、ゆっくりいこうよ」という言葉が頭の中でこだましている。