3月初日の朝、ベッドから起き上がって2階の寝室のカーテンを開けると、そこは一面の銀世界…とまではいかないが、庭一面が雪の白と芝生の緑とのまだら模様になっていた。

隣の家のアーチー Archie という名の白い小犬が自分の庭の一帯を嗅ぎまわっているのが見下ろせた。

8時過ぎに家を出る夫を見送るころには雪が積もり始めた。みぞれ sleet ではなく足跡が残るほどの雪は今年初めて。

私は仕事はオフで、映画三昧の日を過ごす予定だった。毎年恒例のダブリン国際映画祭がちょうど開催されているのだ。正午から上映される1本、そして少し時間をおいて午後遅くに始まる別の映画のチケットはすでに購入している。映画館までは家からまずバスでダブリン中心部に行き、それから15分ほど歩かなければならない。余裕をもって家を出てバス停へ向かう。

雪は相変わらず曇り空をはらはらと舞うように降り続いていて、まだあまり人の歩いていないバス停までの道は真っ白になっていた。

ところがバスは時間どおりに来ない。少し離れたところにある別の路線のバス停まで歩くことにする。足底にグリップのついた撥水加工のブーツを持っていてよかった。

こちらのバス停では誰も待っている人はいなかった。ちょうど数分前に来たバスを見逃してしまったのだろう。残念! あと10分で次のバスが来るというスマホの案内を信じて待つ。

アジア人の若い男性が私の顔をちらっと見ながら通り過ぎて数歩先で足を止めた。それから若い女性が私の後ろに立った。2人とも普通の靴をはいているから靴やパンツのすそはぐっしょり濡れている。男性の方はジャケットを羽織っただけの薄着で傘もさしていない。

「あと5分でバス来るはずなんだけどね」と男性がくったくのない笑顔で私の方にふり返って言った。英語が流暢なのでアイルランドで生まれ育ったか、長く住んでいるのだろう。

「Fingers crossed. (そうなりますように)」と私が言うと、「Where are you from?」と聞いてきたので「Japan」と答える。私が逆に彼に聞くと、彼はベトナム出身で、アイルランドにはやはり長く住んでいるそうだ。

結局バスは5分後には来ず、スマホの表示は「10分後」に変わっていた。彼は「傘を取ってくる」といったんその場を離れた。

隣の丸メガネの女の子と今度は話をする。彼女は専門学校に行くつもりなのだが、「どうせ授業には遅れるけど、講師も時間どおりには来られないだろうから大丈夫」と達観している。「バスが走っているだけまし。」

見知らぬ人とたまに言葉を交わしながら、いつ来るともしれないバスを長く待っていると、いつも『ゴドーを待ちながら』の世界にいるような気分になる。

結局、バスは40分待ってやっと現れた。のろのろと通常の1.5倍くらい時間をかけてダブリン中心部に到着。観るはずだったスペイン映画の巨匠ビクトル・エリセ監督の新作『瞳をとじて』はすでに30分前に始まっているのであきらめ、いつも行く別の映画館で他の作品を観ることにした。

街に着くころには雪はみぞれに変わっていた。トリニティ大学(中央奥)とアイルランド銀行本店(左)のあるカレッジグリーン College Green と呼ばれる広場は、普段は人や車の往来でもっと雑然としている。

予定を変更して急遽観たのはトラン・アン・ユン監督の『ポトフ 美食家と料理人』(La passion de Dodin Bouffant: 2023)。鼻の形が魅力的で横顔が特に映えるジュリエット・ビノシュは未だに初々しい雰囲気で、ちょっとミステリアスなこの料理人のキャラクターにぴったりだった。マネの絵に出てくる黒い帽子の紳士、モネの描く草原に立つ日傘をもった婦人など、印象派の絵画をほうふつとさせる作品。

午後遅くにはダブリンの街は普通の雨模様になった。カフェで少し時間をつぶし、午後遅くに『チュニジア、ある母親と四人姉妹の物語』(Four Daughters: 2023)というドキュメンタリー映画を無事に観ることができた。

スミスフィールド広場 Smithfield Square(Plaza)は、17世紀半ばに家畜の取り引きをするために作られた。現在でも毎月一回馬市場  Horse Fair が開かれるが、近辺の再開発などで馬市場の伝統は危機に瀕しているようだ。写真右手の塔はジェイムソン・ウィスキー蒸留所 Jameson Whiskey Distillery の展望塔。

広場には映画館やカフェ、アパートが建ち並ぶ。Third Space というカフェに入ってベジタリアンソーセージを頼んだ。6ユーロ25セント(約1000円)でサラダ、ポテトチップス付きなのでお得です。

店内の奥には「Up here it’s ok to talk to strangers このスペースでは知らない人と話してもOK」と書かれたサインがあった。そこに座ったけれど、みな自分のスマホやラップトップコンピューターに集中していたな。

ダブリン国際映画祭のメイン会場、ライトハウス映画館。館内のデザインはスタイリッシュでいつ来てもわくわくする。

夕方のニュースでは、この日は朝からの急な雪でアイルランドの広範囲に及んで移動が困難になり、いくつかの学校が閉鎖になったと報道されていた。大学でも中止になった講義が多かったようだ。

アイルランドでは気温が零下まで下がることは少なく、めったに雪は降らない。そのせいか、いざ降ると交通網が簡単に麻痺してしまう。数日間にわたって雪が降る「大雪」は数年ごとに訪れるが、そのたびに多くの学校や職場が閉鎖になる。2018年の大雪では私の職場も数日間休みになった。まだ在宅勤務という意識も設備もなかったころだ。

こういうときに一番割を食うのは観光客だと思う。ダブリン空港は市内からのアクセス手段がタクシーかバスしかない。バスが遅れに遅れ、タクシーも拾いづらいとなったら、飛行機を逃してしまう人もいるに違いない。

ダブリンで積もるような雪が降ったら、交通機関はあてにせず、なるべく移動は控えるに越したことはない。特に季節外れの突然の雪にはご注意を。