2018年にリニューアルオープンした「アンネの家」。アムステルダムでもっとも人気のある施設というだけあって、入口の周りには観光客がたくさん集まっていた。

ここに来るのは約20年ぶりだ。ユースホステルに泊まる週末の安旅行で、当時ハウスメイトだったスペイン人の女の子とその友だちといっしょだった。美術館もどこへも行かなかったが、「アンネの家」だけは訪れた。コーヒーショップで大麻を吸って笑い上戸になり、マクドナルドでげらげら笑っていた彼女たちも、アンネの隠れ家では壁に大きく書かれた『アンネの日記』からの引用文に神妙に見入っていた記憶がある。

運河沿いの角にある大きなガラス張りの建物が Anne Frank House の入口。事前にオンライン予約が必須。2ヵ月前から時間制の前売り券を販売している。

アンネたちが実際に住んでいたのはこの濃い色に塗られたドアのある建物だ、。建物の下層階はアンネの父親オットー・フランクが働いていた会社の事務所と倉庫で、アンネたちは秘密の回転式本棚の奥にある階段から上がる上の階に潜んでいた。

『アンネの日記』を読んだことのない夫のためにも、入場券に7ユーロをプラスして、30分の英語の Introductory program に参加した。第二次世界大戦とユダヤ人迫害の歴史、アンネの家族たちについて写真やビデオも交えて教えてくれるのでおすすめだ。

Introductory programme の説明が終わってしばし展示に見入る参加者たち。

ビデオでは、隠れ家の住人の日課も詳しく紹介してくれたので、彼らの日常がより身近に感じられた。

  • 朝6時45分から各自15分ずつバスルームを使って身支度を整える。朝8時半に建物の一階の倉庫の仕事が始まるので、それからは音を立てないように気をつけなければならない。
  • 9時には倉庫の上の階の事務所の仕事が始まる。事務所の従業員の中の数人は隠れ家の協力者だが、何も知らない従業員もいる。隠れ家では靴下をはいて足音を立てぬように静かに行動しなければならない。
  • 12時45分になると、倉庫で働く人たちは昼ごはんを自宅でとるためにいなくなり、事務所で働く協力者は上に上がってきて隠れ家の住人たちといっしょに昼食を食べる。協力者のひとりはたいてい事務所に残って周囲に目を光らせる。
  • 午後は相変わらず静かに勉強や書きものをしたり休息をとったりする。
  • 5時半になると下での仕事が終わってみな帰宅する。協力者がまた上に上がってきて必要なものはないか尋ねたりする。以降、隠れ家の住人は誰もいなくなった下の階に自由に行き、建物全体に散らばってくつろぐことができるのだ。

日本の職場だったら、そんなにきっちりと全員がお昼休みをとったり、就業時間が終わるとさっさと帰るというのは考えにくい。アイルランドでも厳しいかもしれない。就業時間にきちんと帰れるようにお昼休みを削ったり、休暇の翌日などは朝少し早く出勤して仕事の遅れを取り戻そうとしたりすることはよくあるからだ。オランダの働き方は潔いなあ。ただ、アンネの父親オットーをはじめアンネや姉のマルゴットが事務所の仕事を手伝っていたからできたのかもしれないが。

「アンネの家」の建物ツアーの入口、オットーたちが働いていた会社、そして秘密の「隠れ家」へ。写真撮影ができるのはここまでだ。各国語(日本語も)音声ガイドが各部屋の案内をしてくれる。

施設内のギフトショップでは、アンネが 13歳の誕生日にもらった日記帳を模した赤い表紙のノートブックも売られていた。

隠れ家に暮らしていたのはアンネ一家4人と友人家族、そして歯科医の男性の計8人だ。彼らに2年以上も毎日のように食料品や薬を届けたり、周囲で起こっていることを知らせたりしたのは、オットーの会社の従業員のうちの数人だ。彼らはアンネたちのために図書館から本を借りてきたり、通信教育に自分の名で申し込んで添削物の受け取りをしたりもした。

配給制となっていた食料品や生活雑貨を手に入れるのも、あまり同じところから仕入れては目につくからと、なるべく違う店に行くように努めていた。雨の日も雪の日も、彼らがどこをどうやって歩いて隠れ家の住人たちのためにいろいろなものを調達していたのか。運河が幾重にも層をなし数えきれないほど橋のあるアムステルダムの街で思った。

アンネが日記に「明らかに、わたしたちがここに隠れていることを察しているにちがいありません」と記した八百屋さんの家は、隠れ家のすぐ近くにあった。この八百屋は、協力者以外の人が出払っている昼休みの時間を見計らっていつも重いじゃがいもを配達してくれた。何も聞かずともこんな親切をしてくれたのは、自身も自宅にふたりのユダヤ人をかくまっていたからだ。しかしそれが見つかって八百屋さんも捕まり、アンネはひどいショックを受けたと日記に書いている。

私も年齢を重ねて、当時のアンネの両親や隠れ家の協力者たちの世代になった。そのせいか、今回の訪問ではアンネの周囲にいた大人たちについて考えることが多かった。アンネの家には世界中から10歳未満の子どもやティーンエージャーたちも集まる。隠れ家の部屋ひとつひとつや展示場をまわりながら、彼らは何を感じただろう。

第二次世界大戦下のユダヤ人迫害の足跡を地元のガイドとたどる、街歩きのツアーに参加した。ガイドさんはドイツとウクライナ系のカナダ人。当時、アンネたちだけではなく、ほかにも数千人のユダヤ人がアムステルダムに潜んでいた。当時はパブ(今はレストラン)だったこの建物でも、パブの経営者のオーストリア人の女性が10数人のユダヤ人をかくまっていたという。

アムステルダムを歩いているとよく見かける「つまずきの石」。ユダヤ人がこの石の前にある家に住んだという証だ。たいていがアウシュビッツなどの強制収容所で命をおとしている。

昔ながらの素朴なアップルケーキで有名な Koffiehuis ‘De Hoek’ デ・フックは「アンネの家」から徒歩5分。