夫の叔母のメアリーがオーストラリアで亡くなった。その遺灰がアイルランドに運ばれ、先日、彼女を偲ぶミサが故郷の教会であった。

メアリーはアイルランドの内陸部の Thurles という町で生まれ育った。この町の読み方だが、イギリスやアメリカであれ「サーレス」というカタカナ表記になると思う。アイルランドでは TH は限りなく T のように発音するので、「ターレス」になる。

彼女は7人兄妹。男は兄ひとりだけ、あとは夫の母親も含め女の子ばかりだ。家には3つ寝室があり、ひとつは両親、小さな個室はお兄さん、そして6人姉妹はひとつの寝室に押しこめられた。部屋には大きなベッドがふたつあったがそれでは足らず、誰かが床に寝なければならなかった。子だくさんの家庭が多かった当時のアイルランドでは当たり前のことで、今では姉妹たちの子ども時代の楽しい思い出のひとつになっている。

メアリーは成人するとしばらくダブリンで働き、それからイングランドで親戚の会社を手伝った。1980年前半はアイルランドが深刻な不況に見舞われたときで、職を求めてイギリスやアメリカなどに渡る人が後を絶たなかった。メアリーと他の3人の姉妹は、イングランドを経てオーストラリアに移住した。

ダブリンのヒューストン Heuston 駅から Thurles まで電車で1時間半もかからない。

私が Thurles を訪れるのは去年のクリスマス以来だ。メアリーの追悼ミサまで時間があったので、大聖堂のすぐ近くにある文化施設 The Source に入ってみた。建物は町を流れる川のすぐ脇にあり、一面のガラス窓から川と橋が見える。1階は図書館になっていて、その奥には何やら大きな模型が展示されていた。地元の歴史家ジム・コンドンさんによって作られた数メートルもある模型で、1850年ごろのこの町を再現したものだった。

模型の橋の左側には、1453年に建設された橋城 Bridge Castle がある。この中世の塔は武装兵士の小規模な駐屯地で、川の横断を管理し料金を徴収するとともに、必要に応じて攻撃を防御する役目があったそうだ。

現在の橋の辺りはこんな感じ。上部の欠けた中世の塔 Bridge Castle は、模型の表した 1850年ごろと変わっていない。

メアリーの追悼ミサが行われた町の大聖堂。メアリーたちの父親(夫の祖父)が亡くなったときもここでミサが行われた。

1850年当時の大聖堂の辺りはこんな感じだったらしい。自宅のキッチンで奥さんに手伝ってもらいながら模型を作ったというジムさんは、長年アメリカで仕事をしていたが、退職後にアイルランドに戻って故郷の町の歴史を学んだそうだ。

追悼ミサには、メアリーを知る親戚や隣人、友人や元同僚など多くの人が集まった。ミサの様子はインターネットで中継され、オーストラリアにいる姉妹たちも観ることができた。神父は事前に下調べをたくさんしたのだろう、メアリーの人生について私が知らなかったこともたくさん語ってくれた。歌の上手な神父様で、賛美歌だけではなく、メアリーや姉妹たちのために「Waltzing Matilda」という曲も歌った。「ワルチング・マチルダ」はオーストラリアの非公式の国歌と言われるくらいオーストラリア人にとって特別な曲だそうだ。人生の半分以上を彼の地で過ごしたメアリーを思って、あちこちの参列席から感嘆のため息が出た。

ミサのあと、私たちはメアリーの両親が永眠している近くの墓地に移動した。神父がメアリーの遺灰を埋めるセレモニーを執り行い、家族を代表してメアリーのお兄さんが挨拶をした。今も地元で教鞭を振るうお兄さんは、挨拶の最後に子どものころに親しんだというアイルランド民謡を心を込めて歌った。

約40年ぶりに故郷の土に帰ってきたメアリー。私は数回会ったことがある。とてもエネルギッシュで強い人だった。私たちの結婚や家の購入に際して、もったいないほどのお祝い金を送ってくれた。病気を押して去年の秋に最後にアイルランドを訪れたときは、一瞬一瞬をこの上なく楽しんでいた。

「She’s come full circle.」 

墓地でお兄さんが参列者のひとりにメアリーのことを話しているのが耳に入った。円を一周してもとに戻るように、アイルランドからイギリス、オーストラリアへと移り、最後に故郷のアイルランドに戻ってきたということだ。

今度のクリスマスはいつものように夫の実家で過ごす予定だ。義母にメアリーといっしょに育った子ども時代の話をたくさんしてもらおう。