数日前のあの夜のことを思い出すと体が震えてくる。20年ちょっとダブリンで暮らしてきて、一番恐ろしい出来事だった。

先週の11月23日、木曜日。ことの発端は、午後早い時間にダブリンの北の市街、パーネルスクエア Parnell Square で起きた。学童保育所に並んで入る幼い子どもたちの列を、刃物を持った男性がいきなり襲ったのだ。

子どもたちをかばって抵抗する施設の職員の女性と小さな子どもたちを見て、バイクで通りかかった配達ドライバーがヘルメットを脱いで男の頭などを殴った。ナイフが男の手から離れ、周囲の通行人たちも介入し、警察が到着するまで男は地面に取り押さえられた。

5歳の女の子と施設の女性は重傷を負い、ほかにも数人の子どもたちが傷を負った。

こんなことが起きていたとはつゆ知らず、仕事がオフだった私は市内に出て友人と会っていた。その後、夕方6時ごろからテンプルバーにあるいつもの映画館でフランス映画を2本立て続けに観た。午後10時半、2本目の映画が終わって席を立ったとき、映画館のスタッフが入ってきて注意を呼びかけた。

「数時間前に市内で暴動が起き、すぐ外の通りでも被害がありました。危険なのでほんの1時間前まではお客さんたちをこの映画館の外に出せなかった状態です。今は騒ぎはかなり収まったようですが、くれぐれも気をつけて帰ってください。」

映画館からほんの数メートル先の Dame 通りは封鎖され、バスも路面電車(LUAS)も運行は中止になっているという。Dame 通りから反対方向のリフィー川の方向に歩くのが懸命だと彼らに教えられた。

いったい何ということだろう。何の暴動 riots?パレスチナのデモに関係すること?誰が襲われているの?

なるべく一人にならないように、私は数人の人たちと重なって映画館を出て、川の方に数十メートル歩いていった。しかし川沿いの通りには自転車に乗った若者や男たちが大きな声を上げていて、何か危険な匂いがする。

映画館まで引き返そう、と思って踵を返したとき、どこからかシールド(防護盾)とヘルメットで武装した男たち10人ほどがぬっと現れた。これ以上川沿いに近づくな、と私たちを脅すように防護盾をかざす。警察の治安部隊だ。パトカーも見えた。こんな情景は見たことがない。体が急に冷めていき、危険と隣り合わせになっている不安で胸がいっぱいになる。

「あっちの通りもこっちの通りも封鎖されて、どこに行けばいいの」と映画館の職員にみんながうったえている。すると Dame 通りの封鎖は解除された、もう歩けるようだ、と誰かが言い、今度はそちらの方に歩き出した。

私が毎日のように通る Dame 通りはひどい惨状だった。ガラスの破片が飛び散り、ゴミや何かが燃えた跡が広がっている。私は夫に電話をして「誰かといっしょに安全なところまで歩いて、そこからタクシーを拾ってみる」と伝えた。

トリニティ―大学から徒歩ほんの数分、普段は大勢の観光客も行き交う Dame 通りがこんな状態に。

友人同士らしい女性2人が「いっしょに歩こう」と目で呼びかけてくれた。誰かに電話をして、迎えに来てもらうよう話をつけているようだ。私と方向がまったく違ったので「送ってあげられなくてごめんね」と謝りながら2人は別の道に曲がっていった。

混乱した市街からかなり離れないとタクシーはつかまらないし、迎えにも来ないだろう。家までは歩いて1時間ほどの距離だ、同じ方向の人がいれば歩いて帰ろうと考え始めたところ、優雅な身なりをした年配の女性が、通りを進もうとする車に「ガラスが落ちているよ!」と叫んでいるのが聞こえた。連れの女性が「お母さん、言っても無駄よ」と歩きを止めずに制している。

彼女たちに歩調を合わせると、自然と「何て夜でしょうね」と会話が始まった。お母さんの女性は「ダブリンでこんなことが起きるなんて、本当に情けない」と憤慨している。すでにこの日いろいろな経験をしたようだった。

幼い子どもたちを男が刃物で襲った事件がソーシャルメディアなどで拡散し、ダブリンでは夕方6時ころ、現場近くで暴動が起きていた。襲撃事件で拘束された男が外国人であったことから、反移民、極右の一部の人たちが暴動をあおったようだ。暴徒は警察の車やバス、路面電車に火をつけたり、オコンネル通りなどの店を略奪したりした。

暴動は飛び火し、オコンネル通りからリフィー川を挟んで南側にあるダブリン城の近く、つまり私のいた映画館のすぐそばでも起きた。鎮静に駆けつけた警察官に花火が投げられたり、建物のガラスが割られたりした。近くのトリニティ―大学は通用門のすべてを閉鎖した。

母娘はその日、毎年のクリスマス前の恒例行事として、親子水入らずでダブリンのレストランでディナーをすべく近県のキルデアから来ていた。食事が終わったころには街中は騒然としており、容易に動きが取れない状態になっていた。近くに車を停めていた男性が二人を鉄道駅まで送ると申し出てくれたが、進路の道路がいくつも閉鎖され、車は立ち往生。母娘は男性に礼を言って車を降りたという。

「あの親切な人、車置いていかないとあそこから動けないわよ、気の毒に」とお母さん。

2人は暴徒によって荒らされたり物が投げつけられたりしている通りを歩き続けた。電車も走っていないため、タクシーの運転手をしているという親類の知り合いに連絡を取り、街の外れまで迎えに来てもらうことになった。その待ち合わせ場所に向かう途中に私がたまたま合流したのだ。

私は家まで歩けるはずだ、と話すと、どこに住んでいるの、と聞かれた。「それならキルデアの方面ね」とお母さん、「乗せて行くわよ、もちろん」と娘さん。無事に車で来てくれた運転手の男性に「同行人ができたわよ」と私を紹介してくれた。

男性は私の家の方向を知ると「あー、大丈夫、わかるよ」と二つ返事。私は感謝をしながら車に乗り込んで夫に報告の電話をした。

車の中で、ニュースでこれまで経過を追っていた男性は「仕事もせずにぶらぶらしている輩(やから)が、昼間の事件の抗議に便乗して悪さを働いたんだよ。まったくもって情けない」と語気を荒げた。

家の前まで送ってくれ、私が車代を渡そうとすると、「とんでもない、そんなものは受け取れない」と3人は固辞した。「こんな日にはせめて人にいいことをしないと。私たちはレストランから車で送ろうとしてくれた人から大きな親切を受けた。そのお返しがあなたにできてよかった」という母娘の言葉に私は目頭が熱くなった。「Happy Christmas!」と手を取り合って別れた。

翌日の金曜の Dame 通り。ダブリン中で早朝から清掃活動が行われた。交通網はおおむね復活したが、また暴動が起きるかもしれないと、市内はまだ不穏な空気に包まれていた。市街地のいくつかの学校は休校になり、営業をとりやめた店や観光施設もあった。

幼い子どもたちへの刃物での襲撃を止めた配達ドライバーは、ブラジル人の30代の男性。故郷の家族に仕送りをするために昨年からダブリンで働いているという。彼の勇気と行動力を称え、彼を支援するウェブサイトがすぐにでき、数時間で3千万円を超す寄付金が集まった。

私は映画館を訪れ、事件の夜に私たちを落ち着かせ導いてくれたスタッフにお礼を言った。彼らも私たちのように心細く、危険を恐れていたはずだ。

安全なはずのダブリンで起きた身勝手で無責任な人たちによる暴動は、この後長く市民の心に大きな影を落とすだろう。でも、それ以上にたくさんの人たちが、互いを思い合う親切の輪をつなげていることも実感した。