ヒュー・レイン・ダブリン市立美術館 Hugh Lane Gallery は、魅力的な作品がたくさんあるわりには、あまりダブリン市民の話題に上ることはない。

この美術館に名を冠しているヒュー・レイン卿は、アイルランドのコークに生まれ、イギリスで美術商、そしてコレクターとして成功した人物だ。20世紀初め、近代ヨーロッパ絵画、特にフランス印象派の作品をアイルランドに紹介しようと尽力。1908年にダブリンに美術館をオープンするも、1915年、彼が39歳のときに悲劇が訪れる。ニューヨークに商用で行った帰りに乗った当時最大の旅客船ルシタニアが、ドイツ海軍の潜水艦 U20 の雷撃を受けてアイルランド沖で沈没、彼は他の乗客約1200人とともに帰らぬ人となったのだ。

ヒュー・レイン・ダブリン市立美術館は、1933年に現在の場所、オコンネル通り O’Connell Street の北側に移った(写真左手の建物)。同じ通りにはミシュラン星に輝く老舗レストラン Chapter One がある(夫の誕生日祝いで一度行ったことがある)。

レイン卿の死後、ルノワールやモネなどの39点のコレクションをめぐって、ロンドンのナショナル・ギャラリー側とアイルランドのあいだで長年すったもんだがあった。レイン卿の遺言ではロンドンのナショナル・ギャラリーに遺贈するということだったが、彼が亡くなるまで館長を務めていたダブリンの国立美術館の机の中から、補足遺言書が出てきた。それによると、それらの作品はロンドンではなくダブリンの彼の新しい美術館の中核とする、となっていたのだ。気が変わったんですね。

補足遺言書は署名はされていたものの証人はなく、法的には無効だった。だが、彼の意思を尊重したいアイルランド側とロンドン側との長年の話し合いの末、1993年に妥協案が採択された。31点の作品はダブリンで保管し、特に傑作として名高い残りの8作品は半分に分けて6年ごとにロンドンとダブリンで交換することにしたのだ。

ヒュー・レイン美術館とロンドンのナショナル・ギャラリーの「共有」作品であるルノワールの大作「雨傘 The Umbrella」は現在ロンドンで展示されている。これまでダブリンで何度も目にしていたので、ロンドンで見たときには何だか旧友と再会した気分に。この作品がないと、ヒュー・レイン美術館は何だか華がなくがらんとした雰囲気になる。

作品の説明書きにはちゃんと「Sir Hugh Lane Bequest ヒュー・レイン卿遺贈」と書いてある。

やはり現在ロンドンのナショナル・ギャラリーにある、マネが女弟子を描いた「エヴァ・ゴンザレス像 Portrait of Eva Gonzales」と、同じくマネのモデルとしても有名な女性印象派画家ベルト・モリゾの「Jour d’été」(写真左)。

こんなドラマチックな歴史をもつヒュー・レイン美術館だが、普段は観光客でごった返すこともなく、ゆっくりと館内を回れる。2006年に増改築して新館をオープンしたが、印象派作品などは古めかしい旧館に展示されている。それはそれで味があるのだけれど、空調システムや展示照明はもっと新しくした方がいいんだろうな、と思う。

ヒュー・レイン美術館の入口すぐのステンドグラス展示室。天才ステンドグラス職人そして装飾画家だったハリー・クラーク(Harry Clarke、1889-1931)の作品はお見逃しなく。

もうひとつの目玉は、フランシス・ベーコン(Francis Bacon、1909-1992)が実際に使った工房(スタジオ)の展示。同名の哲学者もいますが、こちらはダブリン生まれの芸術家。ロンドンからそっくり移設した彼のスタジオはとにかく凄まじいカオスです。

現在も活躍するショーン・スカリー(Sean Scully、1945-)の作品、直線を主体にした抽象画も多く展示されている。

私がヒュー・レイン美術館に行くのは、たいがいがクラシック音楽のコンサートのためだ。ほぼ毎週日曜日の正午に行われるコンサート Sundays at Noon は、夏の休み期間を経て9月に再開された。クラシック、ジャズ、現代音楽など幅広いジャンルの音楽を、何と無料で提供している(事前予約が必要)。これからますます活躍が期待される国内外のミュージシャンの演奏が楽しめる貴重な機会だ。

9月終わりのコンサートでは、韓国人のバリトン歌手アン・ジョンミン Josef Jeongmeen Ahn がシューマンやフランシス・プーランクの歌曲をドイツ語で披露した。普段オペラは聴かないが、やはり生で聴くと人間の声の力に感動する。ラフマニノフの作品では Florent Mourier のピアノ伴奏にもうっとりしました。

コンサート会場は展示室のすぐ隣。ドーム状の天井の装飾と天窓がきれいです。

じつはこのヒュー・レイン美術館では今、かれこれ5年も前から企画していたという大規模な展覧会が先週オープンしたばかり。このアンディ・ウォーホル展、なかなか盛況のようだ。しばらくして少し落ち着いてから私も行こうと思っている。