アイルランドでは近年、読書会 book club が盛んだ。ちょっと時間に余裕ができた人たちが街の図書館や有志が開く読書会に顔を出してみて、面白かったら続けるという感じだ。

私の知り合いが一度だけ読書会を主催することになり、私に参加しないかと誘ってきた。理由は簡単。課題本が『The Guest Cat』という本で、これはもともと日本の『猫の客』という本の英訳だったからだ。

私は、うーん、英語の本は頭を使いたくないから読まないんだけどな、と断りかけたが、「舞台は日本なんだから、どういう時代のどういう状況か、肌感覚みたいなものを説明してもらえばいい」と背中を押されたので引き受けることにした。

『猫の客』は詩人・散文家の平出隆(ひらいでたかし)による中編の私小説めいた作品だ。2001年に河出書房新社から出版され、2004年にフランス語に翻訳されて静かな話題になったらしい。2014年、東京に住むアメリカ人の詩人・翻訳家の Eric Selland が英訳、さらに各国語に翻訳され世界中で読まれているそうだ。

以前に何回か、ダブリンの本屋でこの英訳版を見かけたことがあった。藤田嗣治(つぐはる)の「仕立て屋の猫」という絵の猫の顔のアップが表紙に使われ、エンボス加工された光緑色の猫の目と同じ色の題字が浮き上がる印象的なデザインだ。猫好きでなくても思わず手に取ってみたくなる。

案の定、アイルランドでもこの本は多くの人の目に留まったらしく、幾人もに「この本読んだ?」と聞かれた。そしてこの読書会の誘いだ。読まなくてもいいと言われたけれど、やはり内容はちゃんと知らないと、と英訳版を購入、日本の文庫本もネット通販で買い、原作を読んでみた。

今週ダブリンの本屋 Hodges Figgis ホッジス・フィギスに行ったら、おすすめの一冊として『The Guest Cat』が陳列されていた。

取り寄せた日本の文庫本にはなぜか 2 種類のカバーがかけられていた。ひとつ(写真左)には小説内でも言及されている加納光於(みつお)のリトグラフ作品がカバー装画に使われている。もうひとつ(写真右)はおそらく新しいカバーで、英訳版と同じ藤田嗣治の絵だ。「『吾輩は猫である』と並び、世界中で愛されている猫文学」と帯のような装丁に書かれている。猫文学っていったい何?

…舞台は昭和の終わりの東京、古い日本家屋の離れに越してきた30代後半の夫婦が、隣家の猫と出会う。庭の自然とそこに集まる生き物が紡ぎだす四季の移ろいと、昭和天皇の崩御が影を落とす社会情勢の中、猫との突然の別れが訪れる。…

さて、読書会の日がやって来た。7、8人の参加者はみな、私より上の世代の女性たちだ。誰ともなくつぶやいた昔飼っていた猫の話を合図に会が始まった。

「これはけっこう昔の話よね」と参加者の一人が私を見て聞いてきた。私は「昭和天皇という当時の天皇が亡くなったのは1989年なので、だから30年以上前…ですね」と言いながら、そんなに前のことになるのか、と驚いた。

天皇崩御のニュースを知ったのは私が高校2年生の冬休みで、その日は学校の友だちとアイススケート場に行って遊んでいた。「みなさんは恐らく、ダイアナ妃が亡くなった日に自分が何をしていたか覚えているでしょう」と聞くと、全員がうなずいてくれた。もちろんアイルランドにとっては隣国の英国王室の話だが、本当に多くの人にとってダイアナ妃の悲劇の死は衝撃的な出来事だった。

会はなかなか盛り上がった。私のあいまいな読み方と比べ、彼女たちは内容をできるだけ正確に理解したいという欲求があるようだった。例えば…。

  • 夫婦の住む小路と周りの家がどのように配置されているかわかりにくいので、地図がほしい。
  • 英訳版の表紙の裏に書かれたあらすじに、「お互いに話すことはほとんどなかった。They no longer have very much to say to one another」とまるで夫婦の仲が冷え切っているように書かれているが、これは誤解を生むのでは。
  • ここに描かれている庭は日本でよくある庭園か。庭の木や池の配置図がほしい。
  • Zelcova tree という木が重要な木としてよく出てくるが、いったいどんな木か。

確かに、日本語版を読んでいると何度も欅(けやき)の木の描写があったので、英語では何だろうと英訳版をあたると zelcova tree となっていた。アイルランド人にはどうやら馴染みのない木のようだ。

欅といえば、私が小学校低学年のときに通った小学校の大きな欅の木が目に浮かぶ。当時すでに巨木で校庭にデンと存在感を放っていた。

そのことを読書会で話すと今その欅の木がどうなっているか気になり、検索してみた。

すると、私の通った栃木県足利市の「柳原(やなぎわら)小学校」は2000年(平成12年)に閉校になっていた。そして他の小学校2校と併合して「けやき小学校」として生まれ変わっていたのである。つまり欅のある校庭はそのまま残っているということだ。これは嬉しい。推定樹齢300年の欅の木はこれからも学校のシンボルとして大切にされていくだろう。

本屋 Hodges Figgis ホッジス・フィギスは右手の茶色い建物。トリニティ大学のすぐ近くで、目の前の通りには路面電車 LUAS ルアスが走る。

地下1階、地上は3階建てで、階段の踊り場はアイルランドらしいデザイン。