1ミリも進まないピアノ道
子どものときに習っていたピアノを再開して数年になる。昔は全く主体的ではなかったが、今は自分の好きな曲を好きなように弾いて楽しもうと思ってる。
しかし、体は子どものときとは全然違う。楽譜どおりにタカタカ動かせていた指が、今は思いどおりに動いてくれない。手の大きさは変わっていないはずだからと中学生のときに弾いた曲を弾いても、指が開かずオクターブがきれいに弾けない。あれ、こんなんだったっけ。
そして極めつけが、暗譜である。暗譜がとにかく難しい。子どものときは覚えようと思わなくても簡単に何でも暗記できていたのになあ。
今週のピアノのレッスンで、ずっと練習してきた J. S. バッハの平均律クラヴィーアのある曲にやっと合格点をもらえた。何ページもある大曲ではなく、プレリュードとフーガ合わせて4ページの作品である。これだけでも暗譜がなかなかできなかった。今の私には無理だ、と練習が停滞していたが、奇跡的に先生の前で初めて暗譜で通して弾けた。自分でも少し驚いて先生を見ると、先生はすかさず「I think you are done. もういいと思うよ」と言って、ひざに置いて目で追っていた私の楽譜をぱたんと閉じた。次の曲、の合図だ。これでもう同じ曲を聴かなくてすむと先生もほっとしたに違いない。
観光客もダブリン市民も5月下旬から続いている好天を謳歌している。お昼休みに聖パトリック大聖堂の前の公園でのんびり。「最近天気がいいから外出することが多くて、ピアノの練習の時間が取れませんでした」と言い訳しました。
穴場はダブリン城にあるお庭。ベンチでものを食べているとカモメが近寄ってくるので気をつけましょう。
遅々として進まないピアノ。今なら「1ミリも進まない」と言ったりするのか。
日本語は刻々と変化しており、海外にいるとその変化が流れではなく点で認識されるので、新しい言葉や表現に違和感を感じることもある。「1ミリも〜ない」という表現もそうだ。いつの間にか「1ミリも」は「全然」「まったく」「ちっとも」などと同様に完全否定の程度副詞として使われるようになった。
「1ミリも進まない」は、従来の「一歩も進まない」という表現と同じ意味で、「1ミリ」が「一歩」と同様に長さに関係する単位なのでそれほど違和感はない。物事が停滞していて動かない様子をよく強調していると思う。
ただ、「1ミリも知らない」「1ミリも面白くない」「1ミリも興味ない」などなど、降水量や長さと関係のないところでも全否定の強調は止まらない。政治家や芸能人が使って話にインパクトをもたせたいという気持ち、1ミリもわからなくはないんですが。
そんなことより、来月でピアノのお稽古は夏休みに入る。この機会に音楽理論もちょっとやってみまーす。