白い村アルコスと吉祥寺の女探偵
旅行のときに必ず持って行くものは? 私の場合、日記帳(旅先でしか日記をつけない)と文庫本(もちろん日本語)だ。
東野圭吾の『パラレルワールド・ラブストーリー』をパリかどこかに持って行った十数年前、序章からぐいぐい引き込まれ、続きが読みたくてホテルの部屋から出るのが億劫になったことがある。まあそれもいいのだけれど、パリ旅行の思い出がホテルでの読書というのはいかがなものかということで、以来、なるべく区切りよく読める短編集をスーツケースに忍ばせることにしている。
今回のスペイン旅行のお供に選んだのは若竹七海の『静かな炎天』という短編集だ。女探偵、葉村晶が吉祥寺のミステリ専門の本屋でバイトをしながら謎解きをするというシリーズで、シリーズ前作の『さよならの手口』も面白かったので期待大だ。
セビージャからへレスへ移動する電車待ちをしているときに最初の短編を読み始めた。ときに体を張って容疑者を、事件を追わねばならぬ探偵業。「四十歳をすぎると怪我の治りは遅くなる。なにもしなければ体力は戻らない。走り込めば膝を痛め、腹筋すれば腹がつる。とかくこの世は生きづらい」という女探偵の嘆きにぐっとくる。
へレスからバスでアルコス・デ・ラ・フロンテーラに移動し、2泊するホテルに向かう。アンダルシアには切り立った岸壁に白い壁の家々が連なる「白い村」がいくつもあり、アルコスはそのひとつ。8世紀にこの地にやって来たイスラム教徒が砦と入り組んだ路地を作り、13世紀まで支配した。
アルコス Arcos はアーチ、つまりアルコス・デ・ラ・フロンテーラ Arcos de la Frontera は「国境のアーチ」という意味。くねくねとした路地を上がったり下がったりしながら歩いていると、絶景の見渡せる見晴らし台に出くわす。
Bésame en este Arco(このアーチでキスをして)という名の見晴らし台。石灰で塗られた白い壁に赤いブーゲンビリアの花が映える。イタリア人らしき中高年の団体さんがいて、ガイドさんが「キスしていいのはカップルの人たちだけですよー」と言っていたのが笑えた。
我々のホテル Casa Blues からもこんな壮大な景色がバルコニーから見られた。
ホテルの朝食はへレスのカフェで食べたようなサンドイッチで、食べ終わってからしばらく、私はバルコニーに座って本の続きを読んだ。吉祥寺で女探偵はある女性を尾行している。
「緑川操は高架下をくぐり、ハモニカ横丁に移動して漬け物と塩鮭を買った。ショッピングモールのアイルランドの店に立ち寄って紅茶を買うと、今度はプチロードという路地を行き、階段を上がって二階にある喫茶店に入っていった。」(『静かな炎天』若竹七海著、文春文庫、2016)
20代のときに私も住んでいた吉祥寺の描写、そしてアイルランドの紅茶!本から顔を上げると目の前には山々と木と川、そして青い空。日本とアイルランドとスペインが時空を超えて私を取り囲む。何だか異世界にいるみたいだ。
アルコスは小さな村だが観光客が多いのでレストランやお土産物屋には事欠かない。道端にレストランのテーブルが出ていて従業員も外にいるので、2、3日も歩き回っていると顔見知りになって手を振り合ったりしまう。目が合うとニコッ。地元の人と同じように接してくれる。
Monjas Mercedarias Descalzas という1642年から今も続く修道院では、修道女がお菓子を売っている。
ブザーを押すと木の扉が回転し、中から修道女が注文を訊いてくる。アーモンドクッキーを頼んでしばらくすると扉が半回転し、クッキーの箱が現れた。それを取ってお金を入れるとまた回転して修道女のもとへ。「よく顔は見えなかったけど、でも笑顔だったよ」と夫。
アーモンドクッキー 8ユーロは信じられないほど軽い口当たり。密閉容器に詰め替えてダブリンに持ち帰ってきたが、3週間経ってもまだサクサクしておいしかった。
聖マリア教会 Basílica de Santa María de la Asunción の塔を上がると360度の景色が見渡せる。
路地の一角にこんな素敵なタイルの絵を発見。
入口の上にマリア様やイエス・キリストの絵柄のタイルを飾った家がたくさんある。
お土産物屋さんのひとつでニンニクやトマトをすりおろせるカラフルな小皿を購入。絵付けをしている女性は「家族経営なんですよ」。
夜はフラメンコギターショーへ。この辺りで産まれたが育ったのはバルセロナというお兄さんのワンマンショーだ。ショーの前にギターのチューニング。10ユーロで45分のショー(ワンドリンクつき)で、アルコス、カディス、グラナダ出身の作曲家たちの曲をギター一本で奏でてくれた。前日には50人の団体で客席が埋まったそうだが、この日の客は私たち2人だけだった。ワインのつけあわせのチーズは口の中でとろけるおいしさだった。
アルコス・デ・ラ・フロンテ―ラのことを知ったのは、10年前に初めてアンダルシアを旅行するときの参考に買った旅行雑誌『フィガロジャポン ヴォヤージュ』の記事だった。アルコスの村の絶景の写真に吸い込まれた。そのときの旅行はグラナダ中心だったのでアルコスまでは足を延ばさなかったが、今回は念願かなって訪れ、雄大な景色をこの目で見ることができた。そのきっかけを与えてくれたこの雑誌には感謝です。やはり日本の雑誌はすごい。
2009年発行のアンダルシアとトスカーナ特集号。ほかにもいろいろ行きたい町が載っています。次のアンダルシア旅行はまた10年後かな。