私のヒーロー、アンネ・フランク
「あなたのヒーローは誰ですか」と聞かれたら?
英語で「私のヒーロー(英雄)my hero」と言うと、その人を尊敬しているとか、大変感謝をしている、ということになると思う。自分にとって特別な存在の人のことだ。私が昔からヒーローとして尊敬し、慕っているのは、アンネ・フランクだ。
言わずもがなだが、彼女は『アンネの日記』という恐らく世界で一番読まれている日記の筆者だ。
アンネは、オランダのアムステルダムで家族と暮らしていたユダヤ人の女の子。ユダヤ人迫害の手を逃れるために、1942年7月、一家はほかの数人とともに「隠れ家」で生活するようになる。アンネが13歳になってすぐのことだ。
アンネはちょうど13歳の誕生日でもらった鍵つきの日記帳に「キティ」と名前をつけていた。2年ちょっとあいだ、特異な状況に置かれた自分の生活を空想上の友人キティに説明し、多感な時期の思いを綴っていく。
日本では今年3月に公開された Where Is Anne Frank(2021)、邦題は『アンネ・フランクと旅する日記』。アイルランドでは今月やっと観られた。
『アンネの日記』と『目でみる「アンネの日記」』(ともに文春文庫)は、どうしても手放せなくてアイルランドにまで持ってきた数十冊の本のうちの2冊。
私が『アンネの日記』を深町眞理子さん訳で初めて読んだのは、高校生になってからだと記憶している。
読んで衝撃を受けた点は2つ。まず、高校生の私より年下の彼女が大人を見るときの鋭い視線と観察力。自分を子ども扱いする母親や周囲の大人たちとしょっちゅう衝突しているアンネ。真面目な姉のマルゴットを見ならうようにと言う大人たちに我慢がならず、日記に自分の感情をこう吐露している。
「はっきり言ってしまうと、ちっともマルゴットみたいになりたくなんかないんです。わたしから見れば、マルゴットはあんまり受け身すぎるし、おとなしすぎます。なんでも他人の言いなりで、けっして我を通そうとしません。わたしはもっと強い性格になりたい!」(1943年2月5日)
アンネの心の叫びが聞こえるよう。でも彼女はティーンエージャーにありがちな「周りの人間は愚鈍」「私をわかってくれない」とただ感情に任せて書きなぐっているのではない。例えば、自分がこれまでの書いた記述を読み返したとき、母親のことを過激な調子で書いていたことに我ながら驚き、こう反省する。
「どうしてこれほどの怒りに燃え、これほどの憎悪に満ちあふれて、それをみんな、あなた(注:日記)にぶちまけることになったんだろう。それ以来、ずっと考え続け、一年前のアンネを理解しよう、弁護しようと努めているところです。」(1944年1月2日)
アンネは、ゆくゆくは作家かジャーナリストになりたいと思っていた。そして、隠れ家でしたためた日記や物語を出版するつもりでいた。だから時折読み返して、将来どのように編集して出版するべきかをすでに考えていたのだと思う。私はアンネの迫力、そして考えの深さにたじたじだった。
もうひとつ衝撃を受けたのは、アンネとその家族の語学力だ。
日記の中で今でも鮮明に覚えている箇所がある。電気の節約のために電灯がつけられなかった2週間のあいだ、アンネたちは暗がりの中でできる遊びを考え出して実践しているのだが、そのひとつが「英語やフランス語でしゃべる」というもの(1942年11月28日)。ひまつぶしに言語をいろいろ変えて話してみるなんて!英語の勉強ひとつで苦労している高校生の私には、夢のような話だった。
アンネの両親はユダヤ系ドイツ人。ふたりはドイツで出会い、アンネたち姉妹もドイツで生まれている。ナチスによるユダヤ人迫害が深刻化してきたので、父親はオランダのアムステルダムに移って拠点を築き、翌1934年に家族を呼び寄せた。アンネが5歳になる年だ。
アンネはすぐオランダ語を覚え、一家は家ではオランダ語とドイツ語を使っていたという。父親はアンネにドイツ語でゲーテやシラーを読み聞かせたりしている。隠れ家での生活は、ラジオで各国のニュースを聴いて戦線状況をとらえることが中心。フランス語と英語を勉強していたアンネは、イギリスのBBC放送に熱心に耳を傾けているし、一時期恋心も抱くペーターという男の子(一家でやはり同じ隠れ家に生活していた)のフランス語の勉強を手伝ったりしている。
先日行ったデュッセルドルフの見本市。生活雑貨、インテリア雑貨の出展が中心で、ドイツ、オランダの会社が多かった。私が展示品を見ていると出展者がドイツ語で話しかけてくるが、私が英語で返すとすぐ英語に切り替えてくれる。
オランダの会社のブースで話が弾んだレナーテさん。「どうしてオランダ人は英語がそんなに上手なの」と尋ねてみたら、「だってオランダは小さな国だし、オランダ語は他の国に理解してもらえないでしょう」という答え。
アンネに会うことがあったら、と今でも考えることがある。私の想像のアンネはそのときによって、日記を書いていたときのティーンエージャーだったり、語学と筆力を武器に世界で活躍するジャーナリストだったりする。いつ会っても、アンネが友だちになりたいと思ってくれるような人間でありたいと願っている。
デュッセルドルフの歩道で、こんな記念碑を見つけた。女性の名前の後に「1936年にオランダに逃れ、1943年に殺害される」と刻まれている。「つまずきの石」と呼ばれるこの小さな記念碑は、ホロコーストで迫害されたユダヤ人などが住んでいた家の前の道に埋め込まれているものだ。
彼女の住居があった建物は今は簡易ホテルになっている。アンネの父親も若い頃デュッセルドルフに住んでいたように、当時デュッセルドルフには多数のユダヤ人が住んでいた。「つまづきの石」はヨーロッパを中心に十数ヵ国にあり、5月に旅行したブダペストでも時々見かけた。