メアリーの運命
アイルランドでは、昔はたいてい娘の一人にはメアリーという名前をつけた。アイルランドの田舎で生まれ育った義母と話をしていると、姉妹だけではなく近所の人や友だちにもやたらとメアリーがいるので、フルネームやニックネームで呼んだりしてくれないことには誰の話なのかわからなくなる。
アイルランドの人気作家アリス・テイラーは、1940年代に過ごした自分の子ども時代をこんなふうに回想している。
私たち姉妹は、夜、ベッドの中で「あの通りを行くメアリー」と名付けたゲームをして遊びました。通りとは、わが家の門から町へ続く道路で、その道沿いには、メアリーが何人も住んでいたのです。だからそのゲームは、話し手がどのメアリーを思い描いているの言い当てるというものでした。的を絞るためにいろいろ質問し、推理が「好い線を行っている」のかどうか、くだんのメアリーに近づいているのかいないのかを知らされます。そして、うまく言い当てた者が、次のメアリーを選ぶことができるのです。(Alice Taylor ‘'Do You Remember?'' 『こころに残ること - 思い出のアイルランド』アリス・テイラー著、高橋歩訳)
私の仕事関連でもメアリーが何人もいるので、同僚から「さっきメアリーから電話があったよ」と言われても、どの部署か、あるいはどの会社のメアリーかを言ってくれないと混乱するだけ。時々「メアリー当てゲーム」をしている気分になる。
また、メアリー Mary から派生した名前、メアリーの変形の名前をもつ人も多い。ダブリン出身の往年のハリウッド女優、モーリーン・オハラ Maureen O’Hara のモーリーンもしかり、他にも枚挙にいとまがない。何人もの友人知人、かかりつけの歯医者もメアリーの変形の名前だったと知ってびっくりした。
- マリア Maria、マリー Marie、マリエル Mariel
- モーリーン Máirín、Maureen、Maurine
- モイラ Máire、Moira、Moire、モウラ Maura
- マーサ Martha、マータ Marta
- マリオン Marion、マリアン Marian、Marianne
- マリアム Mariam、ミリアム Miriam
- メイ May、メイジー Maisie
- ミア Mia、モヤ Moya、モリー Molly、Mollie…などなど
アイルランド人によく見られる赤毛でカラー映えしたモーリーン・オハラ。アイルランドが舞台の『静かなる男』(The Quiet Man:1952)でジョン・ウェインと共演。(画像は EPIC The Irish Emigration Museum の展示より)
Mary は英語圏の国々で400年以上に渡って、もっともポピュラーな女の子の名前として君臨してきたそうだ。でも私はアイルランドでメアリーという名前の若い女の子に会ったことがない。メアリーから派生したミアやモリーという名前は現代風だが、メアリーという名はちょっと古風だという印象がある。知り合いのイギリス人とアメリカ人にも聞いてみたが、アイルランドと同様に若い人でメアリーは珍しいと言う。
Baby Names of Ireland というウェブサイトでは、1964年以降にアイルランドで産まれた子どもの名前のデータが載っている。これによると、1982年まではメアリーと名づけられた女の子の数は毎年ダントツで多いが、1983年に初めて一位の座を Sarah(サラ、セーラ)に明け渡し、その後どんどん順位を落としている。去年(2020年)の一番人気はグレース Grace で、410人の赤ちゃんがグレースと名づけられている一方、メアリーは64人で女の子の名前のランキング82位だった。こういう運命をたどっている名前は日本では何だろう。
先日、「ダブリンのアートギャラリーツアー」に参加する機会があった。ダブリンには中小の私設の美術画廊が100以上もあるそうだが、アートのコレクターでもない一般市民にはなかなか敷居が高く感じられるもの。それを「実は誰でもいつでも気軽に入れる」として、いくつかの画廊を訪れてオーナーやアーティスト自身から話を聞くというツアーだった。
ツアーガイドはラジオで自分の番組ももっている文化人のモウラ・ウォルシュさん。はい、モウラ Maura もメアリーの変形です。ツアー参加者は7人。秋晴れのダブリンをリフィー川の南北2時間弱歩き通し、10軒ほどの画廊を駆け足で訪れた。買う気はなくてもふらっと入っていいものなんだとわかって、ダブリンの街を歩く楽しみがまた増えた。
グラフトン通りの横道の一つから入れるショッピングモールにある「アイルランドで一番小さい画廊」の Balla Bán Art Gallery。画廊自体は小さいが外にも所狭しと売り物を並べている。オーナーで油絵なども描くフランクさん(写真)が、10年ほど前に銀行を早期退職してこの画廊を開いたきっかけなどを話してくれた。Balla Bán(バラ・ボーン)はアイルランド語で白い壁という意味。
Hillsboro Fine Art Gallery ではダブリン在住のイギリス人画家、ジョナサン・ハンターさん Jonathan Hunter の個展が開催中。「ロックダウン中に家の近くの公園を散歩するのが習慣になり、それからいろいろインスピレーションを受けた」とハンターさん自身(写真左)が自分の作品について解説してくれた。写真右はツアーガイドの元気なモウラさん。
ツアーでは一つひとつの画廊をゆっくり見る時間はなかったので、気になったところを後日改めて訪れてみた。Gormley’s Fine Art Gallery はトリニティ大学のすぐ近く。展示室の奥には小さな中庭があり、彫刻や立体アート作品が展示されていた。居合わせた人と「こんな空間でバーベキューできたらいいね」。