マッサージのときの英語
去年の春、最初のロックダウンが始まって毎日自宅で過ごすようになったころ、右手の二の腕から肩にかけてモヤモヤとした違和感を感じるようになった。それが前腕部、そして左腕にも広がってきた。
夏に職場に戻り、本などを持って移動したりすることが多くなると、電子ケトルを持ち上げたり、ヘアドライアーを使ったりという日常的な動作がつらくなってきた。腕の痛みがひどくなり、時々しびれるようになってきたので、かかりつけの医者に診てもらうことにした。
医者には「腕の筋肉を傷めている」とあっさりと言われた。重いものは持たないようにとアドバイスされ、肩や腕のストレッチの仕方を教えてくれた。それだけ?
「ピアノの練習はしてもいいですかね。手の指を広げたりすると腕が痛むので、しばらく触っていないんですけど」と言うと、医者は「私もピアノするのよ。電子ピアノなんだけど」と身を乗り出し、「どんな曲を弾くの」と聞いてきた。彼女は30代の南アフリカ人。先日引退した南アフリカ出身のラグビー選手、CJ・スタンダー(2019年のラグビーワールドカップで、アイルランド代表チームの一員だった)の英語はちっとも聞き取れなかったけれど、それは彼の母国語がアフリカーンス語だかららしい。南アフリカには11も公用語があって、その人のバックグラウンドによって英語の話し方が違うのだが、このお医者さんは私にもわかりやすい英語を話す。私はクラシックの一辺倒だと言うと、「私はジャズっぽいのも好きなのよー」と今にもスマホからお気に入りの曲を聞かせてくれんばかりの勢いだ。
とにかく、ピアノは少しは弾いてもいいが、腕が痛くなったらやめるように言われる。しかし手首を曲げる角度によって痛みが増すので、ピアノどころか、取っ手のないコップやマグカップを持ち上げることもつらい。歯をみがくのも食事をするのも、歯ブラシやスプーンや箸の角度によっては「イタタ…」となる。スマホをスクロールするのもテレビのリモコン操作もキツい。
折しもまたロックダウンに入って自宅勤務になったので、自分のペースで仕事やストレッチができるようになったのは幸いだった。コンピューターマウスを縦型のものに代えて手首への負担を軽くし、休憩を多くとることに。そして、こちらの人がよく行く理学療法 physiotherapy を試すことにした。
人間工学(エルゴノミクス)デザインのコンピューターマウス。従来のマウスより縦型のマウスで、人間の本来の自然な手首の角度で握ることができ、手首への負担が減る。
日本に接骨院や整骨院があちこちにあるように、こちらには理学療法のクリニックが至るところにある。接骨院と整骨院で施術するのは柔道整復師で、「整復」が元の正しい位置や状態に戻すことという意味であるように、骨折や捻挫、脱臼などのケガを治す専門家だそうだ。一方、理学療法士は、ケガや病気などの治療期間中、日常生活の基本動作が困難になってしまった患者を回復に導く、リハビリテーションの専門家だ。
わが家から徒歩7、8分の、いつも行くスーパーや薬局が入っているショッピングモールの並びに理学療法のクリニックがある。夫が腰を痛めたときにそこにしばらく通ったので、私もそこに行ってみることにした。
電話で予約した時にたまたま応答してくれた人が私の担当になった。30歳ぐらい(マスクをしているので年齢が当てづらい)のローリー Rory という男性「肩甲骨が凝り固まって、そこから肩や腕に痛みが出る」と説明してくれ、腕の運動だけではなく、肩甲骨を鍛えるエクササイズのメニューも組んでくれた。
さまざまな機器がある理学療法クリニック。これは肩甲骨の辺りに利かせるストレッチをする機器で、私も夫も使った。
具体的にどこに痛みがあるのか、どのくらい凝り固まっているのかを見るために、ローリーは肩や背中のマッサージをすると言った。マッサージ!うわー久しぶり、とワクワクしながら椅子に座る。ローリーは私の肩の凝り固まったところを押しながら、「ここテンダー? Is it tender here?」と聞いてきた。
テンダー? どういう意味? ラブミーテンダーと歌ったのはプレスリーで、「やさしく愛して」じゃなかったっけ。よくテンダーなお肉と言うけれど、あれは柔らかくて嚙み切りやすいお肉ということではないか。固ければ筋肉が張っていて凝っていることになるのでは。私の肩のそこは凝り固まってカタい(stiff)のだから、テンダー(柔らかい)ではないだろう。
一瞬でそんなことを考え、「No」と答える。ローリーはふうん、と思案顔で(顔は見えないが)別の箇所を押して、また「ここはテンダー?」と聞いてくる。私は、凝って固いところには「No」、凝っていないところは「(そこは張っていなくて柔らかいからテンダー)Yes, it’s tender there」と答えていった。凝っているところを中心にマッサージをしてくれるといいのに、ローリーはすぐに別の箇所に移ってしまう。
帰宅して夫に一部始終を説明して、何だかマッサージが物足りなかったことを訴えると、夫は「テンダーはそういう意味じゃない」と言う。
「センシティブってことだよ」、つまり「sensitive 敏感になっている=問題がある」ことなので、凝ったり痛かったりして何か問題があるときには、テンダーなのだそうだ。私はまるで反対の反応をしてローリーを混乱させたことになる。「ここ固い? Is it stiff here?」と聞いてくれたらちゃんと答えられたのに、マッサージのときはテンダーかどうか確かめるのが普通らしい。
次回のマッサージ時にはちゃんと反応しようと鼻息を荒くしたが、ローリーはそれ以後は腕のマッサージをちょちょっとしてくれるだけで、肩や背中のマッサージはもうしてくれなかった。そのうち腕の調子もよくなってきたので、理学療法のクリニック通いは終わり、自宅でエクササイズを続けるだけになった。
いつかリベンジの機会を狙っていたが、その機会が先日の鍼灸治療のときに訪れた。初診の際、診療ベッドに腹ばいに横たわった私の背中や肩を鍼灸師のアマンダがていねいにマッサージしてくれたのだ。
「Is it tender here?」
待ってました! 私は「Yes! It’s tender there. はい、そこ(凝っていて)問題ありです」と伝えることに成功した。