去年のちょうど今頃、ハリウッド俳優のマット・デイモンがダブリンで数カ月もの外出自粛生活を送っていることがアイルランド中で話題になった。

デイモンはリドリー・スコット監督の新作映画の撮影のため、2020年3月初めに家族といっしょにアイルランドに入国。コロナ状況がどんどん悪化して映画の撮影は中止になったが、3月下旬にアイルランド全土がロックダウンに入ったため、そのまま滞在することになった。

もともと2カ月の滞在予定だったため、妻と3人の娘たち、家庭教師まで同行し、ホテルではなく一軒家を借りた。それも北アイルランド出身の F1ドライバー、エディ・アーバインの所有する豪邸だという。場所はダブリンの南東にある Dalkey(ダルキーではなくドーキーと発音)という風光明媚な海岸沿いの街で、「お金持ちが住む地域」として知られる。エンヤや U2 のメンバー、映画監督のニール・ジョーダンなども近くに家(エンヤはお城)を構えている。デイモンの滞在先を知って私たちは「やっぱりね」と思ったものだ。

デイモンはここで普通にスーパーやパン屋などに買い物に出かけ、海岸を散歩したりして家族との静かな生活を楽しんでいたようだ。地元の人はそんな彼を日常的に見かけたが、騒ぎ立てることはなかった。だからメディアで彼のダブリン避難生活が報道されたのは2カ月以上経ってからで、デイモンがアメリカに帰国する2週間前のことだった。

テレビ出演などのオファーはあっただろうが、地元ラジオ局の番組にゲストとして登場したくらい。近隣の高校が卒業式を迎えるにあたり、卒業生に「こんな隔離生活の中で何もかもやらなくちゃいけなくて気の毒に思う。でも卒業おめでとう、すごいことだよ」と送ったビデオメッセージもニュースになり、アイルランド中の人の心を熱くした。

私はマット・デイモン級のハリウッドスターには会ったことがないが、アイルランド在住の有名人にはよく遭遇している(もちろんコロナ以前の話)。

日本でも人気があった『ONCE ダブリンの街角で』(Once: 2007)という映画に主演したミュージシャンのグレン・ハンザードは何度もダブリンで見かけていて、一度はイタリアレストランで隣り合わせになった。彼はミュージシャン仲間らしき数人と夕食にやってきたのだが、同行した10歳くらいの男の子たちがテーブルでわらわらと現金を数えているので目立っている。私が興味津々で見ていると、「大人は紙幣で、こいつらにはコインをやるんだよ。今日の稼ぎだ」と説明してくれた。バスキング busking(路上で音楽演奏などのパフォーマンスをすること)をして稼いだ、というわけだ。男の子たちも演奏したのかは不明だが、硬貨だけでも何百ユーロかあったと思う。まさに山分け!

U2 のボノとも同じレストランに居合わせたことがある。そのレストランの常連らしく、マネージャーらしきスタッフも出てきて挨拶したりとレストラン側の対応が大げさだったので気づいたのだが、周囲の客は平静を装っていた。

俳優やミュージシャンだけでなく、アイルランドのお茶の間で人気のニュースキャスターや政治家を見かけるのも日常茶飯事である。数年前、よく朝の生活情報番組などで目にする男の人を見かけた。目が合ったので「今朝あなたのことテレビで見た気がする!」と思わず言ったら、「お天気ニュースやってたからね」と気さくに返事をしてくれた。「よく話しかけられるでしょう?」と聞いたら、「ううん、君みたいに声をかけてくる人はめずらしいよ」。

確かに、どこでどんな有名人を見かけても、周りの人たちはまるでその人が目に入らないかのように普通にふるまう。「彼らにもプライバシーがあるんだから、そっとしておこう」という心遣いなのだろうと思ったが、実はそれだけでもなさそうだ。

現代アイルランド文学の旗手、ロディ・ドイルは、前述のグレン・ハンザードも若かりし頃に出演した映画『ザ・コミットメンツ』(The Commitments: 1991)の原作者だ。ダブリンに住み、メディアの露出も多いので誰でも彼の顔を知っている。

あるとき彼が街中で人を待っていると、10代の少年たちが通りかかった。その中のひとりが「ロディ・ドイルか?」とドイルにずんと近づいて来て言った。ドイルが「そうだよ」と答えると、「So what? だから何だよ」と少年は言い捨てて去った。

ドイルは全く気分を害することなく、むしろ面白く思ったようだ。

「有名だから何だっていうんだ」という気持ちは誰でも持っているだろう。でもこの少年のように、いくら斜に構えていても、足を止めて話しかけてしまうこと自体、相手を有名だと認めているというもの。まだ可愛げがある。大人はもっとひねくれているから、無視を決め込んでしまうのだ。メディアでよく見る顔を見ても、好奇の眼を向けたり話しかけたりして、図に乗らせてはならない。特別な人間だと思わせてはならない!

アイルランドで有名人を見ても誰も騒がないのは、こういう少しひねくれた心情と、プライバシーを尊重しようという心遣いが同居しているからだろう。

ダブリン城の敷地内にあるチェスター・ビーティー博物館 Chester Beatty も約5カ月ぶりに開館。建物に入っているシルクロードカフェも、テイクアウトを再開した。ここにも政治家や俳優がよく出没するのだけれど、今日は誰も見なかった。

博物館前にある庭のベンチでコーヒータイム。